2009年1月10日土曜日
せめて人生を・・・
高校の頃から、アクティブに主体的に動ける時間は一ヶ月に数時間しかなかった。大学の頃には数ヶ月に数時間になった。それでも、相当にひどい状況になっても、人は動き続ける事ができる。私の弱みだけでなく強みさえも私の症状に起因して形成されてきた。だから、もうずっと、まるで自分の物でないかのような人生を歩み続けてきた。
私が置かれた状況によって、自然科学の誰にでも理解でき誰にでも使えるというその際立った特徴は私にとってとても魅力的に写った。私は意識的に、機械的に/自動的に実行できるタスクを自分にインストールしていった。目的意識と実用性はいつでも特別に重要な要素だった。人は何かをするために何かを作り出すのだからそれは実際にいつでも最も重要な要素であるのだが、その事を私は誰よりも強く意識する事ができた。知人達が華やかなプログラミング言語を話題にしたり関数型言語に手を出したりしている中で私はVisual Basicに固執した。Linus TorvaldsがVisual Basicを持ち上げた件は私を勇気付けた。
#Visual Basicの理想は.Net FrameworkとWPFという形で結実している。その主役はもはやVB.NetというよりもC#であるにしても。
本に書かれている事を読み理解する事も完全に自動的に行えた。自分が何を知っていて何を知っていないのか、何を分かっていて何を分かっていないのかを把握する事も、それは学習/研究において最も重要でそしてそれにも関わらず完全に自動的に実行できるタスクだった。だからこそ、認識論的な言説の見せ掛けの高尚さに惑わされる事なく、量子力学の哲学と呼ばれている分野で議論されてきた主題は、余計な物を排除すれば、実際には終始一貫して確率の意味論であると高校の頃にはほとんど直感的に理解していた。
それは古典論において全く理解されていなかったと同様に量子論においても理解されていないのであって、量子論固有の問題ではなかった。歴史的に言えば、フィッシャー等が議論した統計モデルとアンサンブルに関する卵と鶏論争、そして物理学が(素)粒子という概念を確立する過程でボルツマン等によってアンサンブル解釈が暫定的で表面的な結論と見なされるようになった過程が先行して存在し、そしてそれは結局の所実際には何も解決してはいなかったのであって、量子力学においても全く同様に事態は改善せずに確率の意味が不明であり続けているというのが、量子力学の哲学と呼ばれる分野から下らない認識論を剥ぎ取った結果残る意味のある問題意識だった。
一方で、確率の実用論的/道具主義的意味付けは明確だ。仮にあなたがナイフを突きつけられてAに賭けるかBに賭けるか選択する事を強要されているとする。「Aに賭けたら確率2/3で1万円がもらえ、1/3で殺される。Bに賭けたら確率1/5で1万円がもらえ、4/5で殺される。」という``文の意味''は、「Aに賭けなさい」という事だ。Aに賭ける事がどのような意味で有利なのかこれ以上に詳細に説明する事はできない。Aに賭けてもたまたま殺されるかもしれない。同じ賭けを強要されている別の人がBを選び貴方がAを選んだら、彼は助かり貴方は運が悪く死ぬかもしれない。この文の意味は、一体世界で何が起こっているのか何が起きるのかという点に関しては全く不明である。アンサンブルと統計モデルの鶏と卵論争からも読み取れるように、確率的言明は一種のプリミティブな文としての性質を持つようだ。そしてそれにも関わらずこの文の実用論的/道具主義的意味は純粋に明確だ。ところで量子力学は確率論に基礎を置いているのだから、実用論的/道具主義的観点から今例示したような決定理論的な、つまり複数の選択肢からどれかの選択肢を答えとして選べという問題設定は量子力学において本質的にならざるを得ない。
#このエントリでは道具主義という言葉を実用論とほとんど同義で用いているが、ちなみに、最もストイックな意味での道具主義とは、理論とは膨大な経験のリストの圧縮ファイルとその解凍プログラムにすぎないという考え方だ。過激に過ぎると思えるかもしれないが、コペンハーゲン学派、いわゆる標準解釈は結局暗黙にこの考え方を取っているため(これは彼らが行った、``不確定性関係''に対して``不確定性原理''という哲学的意味付けを与えて世界は(少なくともミクロなレベルで)哲学的考察を受け付けないという``結論''を引き出すという万死に値する暴挙の結果だ)、例えば朝永振一郎のようなノーベル賞をとった大御所がそのノーベル賞の対象となった繰り込みの理論が数学的厳密さを(当時は)欠いている事に関連して繰り返し同様の趣旨の発言をしている。このように、標準解釈の``弊害''は滅茶苦茶大きい。ノーベル賞の受賞者にそんな事を言われたら、学生が一生懸命学んでいる事はただの演習問題の解き方、つまり圧縮ファイルの暗記と解凍プログラムの使い方の練習だという事になってしまう。上に立つ者には、少々浮ついていようとも、リップサービスをする義務があろう。
ディラックに至るまで、コペンハーゲン学派が言う実用論/道具主義とは、粒子N個のうちある準位から別のある準位に遷移する粒子数の割合(遷移率)の近似的な計算方法と、散乱中心より十分に広がった単位面積辺りn個の粒子を含む粒子ビームが散乱中心に向かって入射した時に面積換算でどれだけの粒子が直進せずに散乱するか、つまり散乱する粒子数をnSとした時の係数S(断面積)を求める近似的な計算方法とが、状態を表す波動関数あるいはヒルベルト空間のベクトルと物理量を表す作用素のペアに対して平均値を対応させる内積規則によって手に入ったのだから、それ以上は望まないという物だった。それは所謂量子力学の哲学の一つの立場に数えられはしているが、哲学や思想というよりも現状満足と諦めといった物であり、哲学や思想という冠に値しない言説だった。そこでは分布が持つ平均値パラメタは測定値の近似値/推定値の同義語として用いられる。つまり、N個のうちおおよそN・遷移率個の粒子が実際に遷移するのであり、おおよそn・断面積個の粒子が実際に散乱されるのだ。近似値しか求められない理由は形而上的な不確定性``原理''に求められ、不確定性``関係''に基づいて見積もられる分散はこの近似値の誤差・不確定性であり、つまりそれ以上結果について確実な事を喋る事ができない度合い、不確定性``原理''がかけるベールの大まかな尺度と見なされる。確率論における加法的平均値に特別な意味を認める事の正当性や推定の理論における加法的な平均操作に関してアンバイアストな推定量に特別な意味を認める事に関する批判等等の議論を視界から遠ざけながら彼らは哲学を議論しているつもりになっているのだ。
粒子が多数ある場合には、多数の粒子に渡る加法または平均によって定義される物理量の確率分布が持つ理論的な平均値パラメタを測定値の近似値/真値と見なす事が中心極限定理によって正当化されるのだと、彼らは何となく良く調べもせずに信じている。しかし極限操作に関わる定理が有限個の粒子の物理と関係する事などあり得ない事だ。コペンハーゲン以降ディラックに至るまで、彼らの言う実用主義/道具論において想定されている``用途''とは、測定値を「予言」する事だった。今でも学部では学生はそう教えられるだろう。しかし、確率100%または0%の事象を除いて、確率的に生起する事象を「予言」する事は不可能だ。運が悪ければ外れる事があるかもしれないからだ。学生が演習問題を解く場合には確率や物理量の平均値を計算できると単位がもらえるので確かに実用的だが、量子力学が実際的に用いられる場面では測定値を「予言」する目的で理論が用いられるなんて状況は厳密な意味では皆無だ。
#あまり注意されないことだが、実は確率100%や0%である事象が生じるという主張すら世界で何が起こるのか何が起こっているのかという事について何かを言明しているわけではない。例えば、ある試行においてあるい命題が確率100%で満たされると主張されたとする。この試行は独立に繰り返し可能だとしよう。実際にこの試行を繰り返した無限長のシーケンスにおいて、有限回だけこの命題が満たされなかったとしてもこの確率論的主張は依然として正しい主張として認められる。
実際には、ある事象の生起する確率や、その典型例として有限個のデータ列に対して計算される物理量の加法的平均値(それは物質、つまり粒子のアンサンブルから直接得られる場合もある)がある区間内に収まる確率が計算され、例えばその確率が99%だとして、それは、その事象が生起しなかったり平均値がその区間内に収まらない事に賭けるのは6回コイントスを行って一度も表が出ない事に賭けるよりも非合理的である事を意味する。このように物理において量子力学が用いられる時には、少なくとも暗黙的には常に、選択肢の間に合理性の優劣をつけよという決定理論的問題が議論されてきたのだ。理論物理学の最も華々しい研究として新しい理論を提唱する行為があり、理論が正しいとすると大幅に有利でかつ対立仮説が正しかったりパラメタがある幅以上にずれていると大幅に不利になる賭けを提唱してそれに実際に勝って見せる事が確率的な理論を実証する唯一の手続きとして認められていて、それが実際にしばしば実行されて理論物理学の歴史の最も華やかなストーリーを形成してきたために、「予言と検証」が標準的な実験の枠組みとして学部で教えられるようになった。だが、このケースにおいてすらその実態は決定理論的な選択肢を選択するという行為である。ただそれが仮定に基づく選択であるというだけだ。そしてひとたび十分に検証され認められた理論を使うという場面では「予言」など誰も行わず、彼らは選択肢に優劣を付けるために積極的に理論を利用していくのだ。そしてさらに、全く測定値の予測とかけ離れた問題設定がある。それは、測定値から推定量(例えばデータから計算した物理量の加法的平均値)を計算する事によるパラメタ(例えば物理量の分布の平均値)推定の問題だ。その推定結果は、このパラメタを他の方法によってさらに精密に推定して検証する事を実行しない場合にも意味を持つ。むしろ、そのような方法が存在しない場合の方が重要だ。なぜなら、全く実用的に言って、推定とは、分からない量を推測するために行うのだから。「理論は測定値を``予言''するために``使う''」これは単に広く信じられ伝統的に学生に教えられている都市伝説に過ぎない。シュレディンガー音頭と何ら違いはないのだ。
一方で量子情報、量子計算では単純なピーク状でない確率分布の詳細な形状それ自体が意味を持ちもはや加法的平均値には特別な意味が認められない。その代わりに理想的な測定値の値それ自体が主役となる。もし、具体的な測定の過程を介して得られる(誤差の乗った)測定値を扱いたければそれは量子力学の理論の範疇で一貫して扱われる。そこでは初めから問題設定は決定理論であり、推定論だ。
結局、単純に歴史的・伝統的理由から物理らしいと見なされる題材よりも、量子情報的題材の方がよほど物理として本質的だった。量子力学が確率論と密接に関連し、そして確率の意味は複数の選択肢に優劣を付けるという形でのみ明確であるが故に、実用論/道具主義的観点に立てば問題設定は情報理論的に、つまり推定論や決定理論的にならざるを得ないのだ。すると必然的に、実在に関して現実離れした哲学的立場は放棄せざるを得なくなる。なぜなら、既に十分に実証された理論を用いる場合にのみ合理的な選択肢の選択に用いる事ができるのであり、その場合同じ賭けを繰り返して選択の優位性を検証する必要はないし、ほとんどの場合それはできないからだ。例え偶然に有利だったはずの賭けに負けたとしても、貴方は理論を信じ、最良の選択をしたのだと信じるしかない。また、測定できない量を推定する事にこそ意味があるのであり、その量を測定できるならば推定する事に意味はない。結局測定値を予言する事に実用上の意味はなく、測定ができるならば、測定してしまえば知りたかった値が得られるのだ。このように量子力学を``使う''という場面においては、見ていない時の月の振る舞いに意味を認め興味の(賭けの)対象とせざるを得ないのである。
買い物帰りの主婦でさえ自分が買い物袋に入れた秋刀魚が実在している事を知っている。そして実際に買い物袋を覗いてみれば、実際に秋刀魚は入っているのだ。物理学者は買い物袋の中の秋刀魚について言及する事を止め、あまつさえ、言及してはいけないと言った。買い物帰りの主婦でさえ秋刀魚が実在している事を知っているのに、物理学者だけがそれを知らず、そして研究結果に基づく学問的な地位によってではなく純粋に社会的な地位によって他者に買い物袋の中の秋刀魚について発言してはいけないと強いてきたのだ。しかし量子情報は買い物袋の中の秋刀魚について言及する。実用的に言って、買い物袋を覗いたら秋刀魚が入っているという当たり前の結論を得るためにはそうせざるを得ないのだ。そこに秋刀魚が本当に実在している事を証明する事ができないのは確かだが、それは正しいが何も生み出さない空虚な議論だ。正に科学哲学の良心たるカール・ポパーが言うように。
貴方は、貴方が見ていない時には月は存在していないという立場を取ることも、網膜から脳にいたる電気信号だけが実在だという立場も、意識だけが実在だという立場も、好きに取れる事ができる。これは都市伝説によってフォン・ノイマンが議論したとまことしやかに信じ込まれている``境界の移動''に関する議論だ。しかし境界はこちら側に移動できるのと同様にあちら側にも移動できるのであり、秋刀魚の実在を認めない事の実用論的デメリットは計り知れないしメリットは皆無だ。秋刀魚が実在すると証明する事はできないが、それでもあなたは実在している秋刀魚について好きなだけ喋って良い。それが人の尊厳という物だ。コペンハーゲン学派は人からその尊厳を無自覚に奪った。その結果として学生達/一般の人々は偉い人たちに気を使いながら恐る恐る物事を喋る事になった。それは物理学者達の罪業だ。
OK。安心しよう。貴方が見ていないくとも月は存在している。それはとても当たり前の事だ。そして誰もがそれを当たり前であると知りながら、そう発言する事に気後れする社会的空気を物理学は作り上げてしまった。それはとても罪深い行為だ。
#おそらく、何かをしてはいけない、何かを考えてはいけない、何かについて喋ってはいけないという言説を私が全く顧みる事がないのは私が置かれた健康上の特別な状況によるものなのだろう。それは私がおかれた状況が齎した利点の一つだ。なぜならそのような姿勢は実際に正しいからだ。人は先に進むために学問を進めるのだから。
このように、私にとって、問題点の所在をロケートする行為は呼吸をするより簡単に出来る事で、それにも関わらず何故か周りの知人達にとってそれを実行する事は困難であるようだった。それは彼らの能力的な問題ではなく(私は高度な環境に置かれていたので明らかに知人達の問題把握能力は標準に比べて際立って優れていた)、伝統的な物理学/量子力学が作り出した負の遺産だった。一方で、私は問題把握のその先に進みたいと常にもがいていた。だが、状況は悪化するばかりだった。何かを継続的に行う事ができないからだ。セミナーのために期限が定められていれば本を読み理解し関連文献にも目を通しノートにまとめる事はできる。だが、たまに訪れる僅かな主体性を持ってアクティブに活動できる時間に読もうと思う論文を印刷したり本を少し読み進めても、それはすぐに数週間から数ヶ月という単位で途切れてしまうのだ。何度も同じ論文を印刷し何度か一度買った事を失念して同じ本を買い、結局私は大学時代に一歩も前に進めなかった。大学院時代には思い切って講義を完全に切り捨てる事と今年の4月頃に少しだけ状態が改善した事で少しだけ前に進めた。でも結局今や大学院からもドロップアウトしてしまったという有様だ。それでも、大学・大学院時代に私が何も成せなかったわけではないし、むしろ、私が置かれた特別な状況は、私に際立って合理的な視点を与えた。
そのように、私が抱えていた問題は私に対してプラスに働く部分も確かにあったのだ。だから、これまでの人生が自分の物でないように感じられたとしても、やはり私の人生はずっと私の人生であり続けたのだと思うようにしている。それは誰だってそうだ。人を形成する要素は単純にプラスやマイナスに働く物ではない。全く健康上の問題も経済上の問題も抱えていない人間が要領の良さばかりを身に付けて飲み会のような標準的な娯楽だけを楽しみとしながらつまらない人生を送る事もあれば、少しばかり体の弱い人間がそれをバネに立派な事跡を成す事もあるだろう。
問題は、現在の私が問題を抱えている事自体ではなく、それが私から人生の選択肢を全て奪ってしまっている事だ。せめて、私の人生と呼べる物が再び与えられる事があれば、それがどんな物であっても、文句を言わずそれを立派に歩んで見せようと思う。そのために、全く収入の道が閉ざされる事がないように、大学の頃から株式投資について調べ実践し、それは上手く行かなかったけれど、実家に頼るようになってから10月くらいの体調が最悪だった時期に「身も蓋もない」を開発して(これは情報収集とプログラミングを自動的に行えるタスクとして自分にインストールしていたから出来た事だ)Paypal経由で寄付を受け付けるようにした。その寄付はまだ一件しかないけれど、とにかくその経験を通じて、こんな状況になっても人間にはできる事がまだまだたくさんあると実感できた。それはまず第一に人間という物はそれほどに優れたシステムであるという事であり、そしてまた私がこれまで自分に対して行ってきた機能追加の賜物でもある。それを誇りに思い、絶望する事のないように心がけよう。
そういえば、麻生首相が、医療費圧迫に関連して、健康管理を怠らない努力をしているために健康でいられるという認識の発言をしていた。おそらく本当にそう思っているのだろう。私の父親くらいの世代の人々は人は自由意志による選択だけで人生を進めていくのではないという事が中々理解できないようで、イレギュラーな事態への対応がとても下手だ。悪い事をしなくても問題は起こるのだという事が、散々天引きで保険を引き落とされていても理解できないようだ。私の父親も管理職だが、部下の健康問題に関連してあまり上手く対応できなかった事があったようだ。私の場合も指導教官が初め状態を全く理解してくれず、理解し始めたら今度は様々に原因探しを始め、初めから休学の意思を伝えていたのに休学までに半年以上かかった。
私の祖父母の世代は戦争という自分の意思の埒外の理不尽を経験しながらレールを作っていった世代であり、私の父母の世代はそのレールを歩いてきた。私達はレールがなくなってしまった世代だ。たとえ私のように健康上の問題を抱えていなくてもやれ失業だの内定取消しだのと皆大変な思いをしているし、だからこそ逆にフリーターのような道も進んで選べる。上の世代は今の若者は3ヶ月で辞めるだのと文句を言ったりフリーターを非難したりするが、彼らは三ヶ月で``辞めなかった''わけでも、フリーターに``ならなかった''わけでもないのだ。
道行く人々に自分の窮状を一々訴えても仕方がない。今は赤の他人に自分の状況を理解してもらう事よりも(主治医には理解してもらわないと駄目だが)人生を掴みとろうと努力すべき時だ。その後に人間関係が形成されれば信頼できる友人には自分について語る事もあるだろう。
私が置かれた状況によって、自然科学の誰にでも理解でき誰にでも使えるというその際立った特徴は私にとってとても魅力的に写った。私は意識的に、機械的に/自動的に実行できるタスクを自分にインストールしていった。目的意識と実用性はいつでも特別に重要な要素だった。人は何かをするために何かを作り出すのだからそれは実際にいつでも最も重要な要素であるのだが、その事を私は誰よりも強く意識する事ができた。知人達が華やかなプログラミング言語を話題にしたり関数型言語に手を出したりしている中で私はVisual Basicに固執した。Linus TorvaldsがVisual Basicを持ち上げた件は私を勇気付けた。
#Visual Basicの理想は.Net FrameworkとWPFという形で結実している。その主役はもはやVB.NetというよりもC#であるにしても。
本に書かれている事を読み理解する事も完全に自動的に行えた。自分が何を知っていて何を知っていないのか、何を分かっていて何を分かっていないのかを把握する事も、それは学習/研究において最も重要でそしてそれにも関わらず完全に自動的に実行できるタスクだった。だからこそ、認識論的な言説の見せ掛けの高尚さに惑わされる事なく、量子力学の哲学と呼ばれている分野で議論されてきた主題は、余計な物を排除すれば、実際には終始一貫して確率の意味論であると高校の頃にはほとんど直感的に理解していた。
それは古典論において全く理解されていなかったと同様に量子論においても理解されていないのであって、量子論固有の問題ではなかった。歴史的に言えば、フィッシャー等が議論した統計モデルとアンサンブルに関する卵と鶏論争、そして物理学が(素)粒子という概念を確立する過程でボルツマン等によってアンサンブル解釈が暫定的で表面的な結論と見なされるようになった過程が先行して存在し、そしてそれは結局の所実際には何も解決してはいなかったのであって、量子力学においても全く同様に事態は改善せずに確率の意味が不明であり続けているというのが、量子力学の哲学と呼ばれる分野から下らない認識論を剥ぎ取った結果残る意味のある問題意識だった。
一方で、確率の実用論的/道具主義的意味付けは明確だ。仮にあなたがナイフを突きつけられてAに賭けるかBに賭けるか選択する事を強要されているとする。「Aに賭けたら確率2/3で1万円がもらえ、1/3で殺される。Bに賭けたら確率1/5で1万円がもらえ、4/5で殺される。」という``文の意味''は、「Aに賭けなさい」という事だ。Aに賭ける事がどのような意味で有利なのかこれ以上に詳細に説明する事はできない。Aに賭けてもたまたま殺されるかもしれない。同じ賭けを強要されている別の人がBを選び貴方がAを選んだら、彼は助かり貴方は運が悪く死ぬかもしれない。この文の意味は、一体世界で何が起こっているのか何が起きるのかという点に関しては全く不明である。アンサンブルと統計モデルの鶏と卵論争からも読み取れるように、確率的言明は一種のプリミティブな文としての性質を持つようだ。そしてそれにも関わらずこの文の実用論的/道具主義的意味は純粋に明確だ。ところで量子力学は確率論に基礎を置いているのだから、実用論的/道具主義的観点から今例示したような決定理論的な、つまり複数の選択肢からどれかの選択肢を答えとして選べという問題設定は量子力学において本質的にならざるを得ない。
#このエントリでは道具主義という言葉を実用論とほとんど同義で用いているが、ちなみに、最もストイックな意味での道具主義とは、理論とは膨大な経験のリストの圧縮ファイルとその解凍プログラムにすぎないという考え方だ。過激に過ぎると思えるかもしれないが、コペンハーゲン学派、いわゆる標準解釈は結局暗黙にこの考え方を取っているため(これは彼らが行った、``不確定性関係''に対して``不確定性原理''という哲学的意味付けを与えて世界は(少なくともミクロなレベルで)哲学的考察を受け付けないという``結論''を引き出すという万死に値する暴挙の結果だ)、例えば朝永振一郎のようなノーベル賞をとった大御所がそのノーベル賞の対象となった繰り込みの理論が数学的厳密さを(当時は)欠いている事に関連して繰り返し同様の趣旨の発言をしている。このように、標準解釈の``弊害''は滅茶苦茶大きい。ノーベル賞の受賞者にそんな事を言われたら、学生が一生懸命学んでいる事はただの演習問題の解き方、つまり圧縮ファイルの暗記と解凍プログラムの使い方の練習だという事になってしまう。上に立つ者には、少々浮ついていようとも、リップサービスをする義務があろう。
ディラックに至るまで、コペンハーゲン学派が言う実用論/道具主義とは、粒子N個のうちある準位から別のある準位に遷移する粒子数の割合(遷移率)の近似的な計算方法と、散乱中心より十分に広がった単位面積辺りn個の粒子を含む粒子ビームが散乱中心に向かって入射した時に面積換算でどれだけの粒子が直進せずに散乱するか、つまり散乱する粒子数をnSとした時の係数S(断面積)を求める近似的な計算方法とが、状態を表す波動関数あるいはヒルベルト空間のベクトルと物理量を表す作用素のペアに対して平均値を対応させる内積規則によって手に入ったのだから、それ以上は望まないという物だった。それは所謂量子力学の哲学の一つの立場に数えられはしているが、哲学や思想というよりも現状満足と諦めといった物であり、哲学や思想という冠に値しない言説だった。そこでは分布が持つ平均値パラメタは測定値の近似値/推定値の同義語として用いられる。つまり、N個のうちおおよそN・遷移率個の粒子が実際に遷移するのであり、おおよそn・断面積個の粒子が実際に散乱されるのだ。近似値しか求められない理由は形而上的な不確定性``原理''に求められ、不確定性``関係''に基づいて見積もられる分散はこの近似値の誤差・不確定性であり、つまりそれ以上結果について確実な事を喋る事ができない度合い、不確定性``原理''がかけるベールの大まかな尺度と見なされる。確率論における加法的平均値に特別な意味を認める事の正当性や推定の理論における加法的な平均操作に関してアンバイアストな推定量に特別な意味を認める事に関する批判等等の議論を視界から遠ざけながら彼らは哲学を議論しているつもりになっているのだ。
粒子が多数ある場合には、多数の粒子に渡る加法または平均によって定義される物理量の確率分布が持つ理論的な平均値パラメタを測定値の近似値/真値と見なす事が中心極限定理によって正当化されるのだと、彼らは何となく良く調べもせずに信じている。しかし極限操作に関わる定理が有限個の粒子の物理と関係する事などあり得ない事だ。コペンハーゲン以降ディラックに至るまで、彼らの言う実用主義/道具論において想定されている``用途''とは、測定値を「予言」する事だった。今でも学部では学生はそう教えられるだろう。しかし、確率100%または0%の事象を除いて、確率的に生起する事象を「予言」する事は不可能だ。運が悪ければ外れる事があるかもしれないからだ。学生が演習問題を解く場合には確率や物理量の平均値を計算できると単位がもらえるので確かに実用的だが、量子力学が実際的に用いられる場面では測定値を「予言」する目的で理論が用いられるなんて状況は厳密な意味では皆無だ。
#あまり注意されないことだが、実は確率100%や0%である事象が生じるという主張すら世界で何が起こるのか何が起こっているのかという事について何かを言明しているわけではない。例えば、ある試行においてあるい命題が確率100%で満たされると主張されたとする。この試行は独立に繰り返し可能だとしよう。実際にこの試行を繰り返した無限長のシーケンスにおいて、有限回だけこの命題が満たされなかったとしてもこの確率論的主張は依然として正しい主張として認められる。
実際には、ある事象の生起する確率や、その典型例として有限個のデータ列に対して計算される物理量の加法的平均値(それは物質、つまり粒子のアンサンブルから直接得られる場合もある)がある区間内に収まる確率が計算され、例えばその確率が99%だとして、それは、その事象が生起しなかったり平均値がその区間内に収まらない事に賭けるのは6回コイントスを行って一度も表が出ない事に賭けるよりも非合理的である事を意味する。このように物理において量子力学が用いられる時には、少なくとも暗黙的には常に、選択肢の間に合理性の優劣をつけよという決定理論的問題が議論されてきたのだ。理論物理学の最も華々しい研究として新しい理論を提唱する行為があり、理論が正しいとすると大幅に有利でかつ対立仮説が正しかったりパラメタがある幅以上にずれていると大幅に不利になる賭けを提唱してそれに実際に勝って見せる事が確率的な理論を実証する唯一の手続きとして認められていて、それが実際にしばしば実行されて理論物理学の歴史の最も華やかなストーリーを形成してきたために、「予言と検証」が標準的な実験の枠組みとして学部で教えられるようになった。だが、このケースにおいてすらその実態は決定理論的な選択肢を選択するという行為である。ただそれが仮定に基づく選択であるというだけだ。そしてひとたび十分に検証され認められた理論を使うという場面では「予言」など誰も行わず、彼らは選択肢に優劣を付けるために積極的に理論を利用していくのだ。そしてさらに、全く測定値の予測とかけ離れた問題設定がある。それは、測定値から推定量(例えばデータから計算した物理量の加法的平均値)を計算する事によるパラメタ(例えば物理量の分布の平均値)推定の問題だ。その推定結果は、このパラメタを他の方法によってさらに精密に推定して検証する事を実行しない場合にも意味を持つ。むしろ、そのような方法が存在しない場合の方が重要だ。なぜなら、全く実用的に言って、推定とは、分からない量を推測するために行うのだから。「理論は測定値を``予言''するために``使う''」これは単に広く信じられ伝統的に学生に教えられている都市伝説に過ぎない。シュレディンガー音頭と何ら違いはないのだ。
一方で量子情報、量子計算では単純なピーク状でない確率分布の詳細な形状それ自体が意味を持ちもはや加法的平均値には特別な意味が認められない。その代わりに理想的な測定値の値それ自体が主役となる。もし、具体的な測定の過程を介して得られる(誤差の乗った)測定値を扱いたければそれは量子力学の理論の範疇で一貫して扱われる。そこでは初めから問題設定は決定理論であり、推定論だ。
結局、単純に歴史的・伝統的理由から物理らしいと見なされる題材よりも、量子情報的題材の方がよほど物理として本質的だった。量子力学が確率論と密接に関連し、そして確率の意味は複数の選択肢に優劣を付けるという形でのみ明確であるが故に、実用論/道具主義的観点に立てば問題設定は情報理論的に、つまり推定論や決定理論的にならざるを得ないのだ。すると必然的に、実在に関して現実離れした哲学的立場は放棄せざるを得なくなる。なぜなら、既に十分に実証された理論を用いる場合にのみ合理的な選択肢の選択に用いる事ができるのであり、その場合同じ賭けを繰り返して選択の優位性を検証する必要はないし、ほとんどの場合それはできないからだ。例え偶然に有利だったはずの賭けに負けたとしても、貴方は理論を信じ、最良の選択をしたのだと信じるしかない。また、測定できない量を推定する事にこそ意味があるのであり、その量を測定できるならば推定する事に意味はない。結局測定値を予言する事に実用上の意味はなく、測定ができるならば、測定してしまえば知りたかった値が得られるのだ。このように量子力学を``使う''という場面においては、見ていない時の月の振る舞いに意味を認め興味の(賭けの)対象とせざるを得ないのである。
買い物帰りの主婦でさえ自分が買い物袋に入れた秋刀魚が実在している事を知っている。そして実際に買い物袋を覗いてみれば、実際に秋刀魚は入っているのだ。物理学者は買い物袋の中の秋刀魚について言及する事を止め、あまつさえ、言及してはいけないと言った。買い物帰りの主婦でさえ秋刀魚が実在している事を知っているのに、物理学者だけがそれを知らず、そして研究結果に基づく学問的な地位によってではなく純粋に社会的な地位によって他者に買い物袋の中の秋刀魚について発言してはいけないと強いてきたのだ。しかし量子情報は買い物袋の中の秋刀魚について言及する。実用的に言って、買い物袋を覗いたら秋刀魚が入っているという当たり前の結論を得るためにはそうせざるを得ないのだ。そこに秋刀魚が本当に実在している事を証明する事ができないのは確かだが、それは正しいが何も生み出さない空虚な議論だ。正に科学哲学の良心たるカール・ポパーが言うように。
貴方は、貴方が見ていない時には月は存在していないという立場を取ることも、網膜から脳にいたる電気信号だけが実在だという立場も、意識だけが実在だという立場も、好きに取れる事ができる。これは都市伝説によってフォン・ノイマンが議論したとまことしやかに信じ込まれている``境界の移動''に関する議論だ。しかし境界はこちら側に移動できるのと同様にあちら側にも移動できるのであり、秋刀魚の実在を認めない事の実用論的デメリットは計り知れないしメリットは皆無だ。秋刀魚が実在すると証明する事はできないが、それでもあなたは実在している秋刀魚について好きなだけ喋って良い。それが人の尊厳という物だ。コペンハーゲン学派は人からその尊厳を無自覚に奪った。その結果として学生達/一般の人々は偉い人たちに気を使いながら恐る恐る物事を喋る事になった。それは物理学者達の罪業だ。
OK。安心しよう。貴方が見ていないくとも月は存在している。それはとても当たり前の事だ。そして誰もがそれを当たり前であると知りながら、そう発言する事に気後れする社会的空気を物理学は作り上げてしまった。それはとても罪深い行為だ。
#おそらく、何かをしてはいけない、何かを考えてはいけない、何かについて喋ってはいけないという言説を私が全く顧みる事がないのは私が置かれた健康上の特別な状況によるものなのだろう。それは私がおかれた状況が齎した利点の一つだ。なぜならそのような姿勢は実際に正しいからだ。人は先に進むために学問を進めるのだから。
このように、私にとって、問題点の所在をロケートする行為は呼吸をするより簡単に出来る事で、それにも関わらず何故か周りの知人達にとってそれを実行する事は困難であるようだった。それは彼らの能力的な問題ではなく(私は高度な環境に置かれていたので明らかに知人達の問題把握能力は標準に比べて際立って優れていた)、伝統的な物理学/量子力学が作り出した負の遺産だった。一方で、私は問題把握のその先に進みたいと常にもがいていた。だが、状況は悪化するばかりだった。何かを継続的に行う事ができないからだ。セミナーのために期限が定められていれば本を読み理解し関連文献にも目を通しノートにまとめる事はできる。だが、たまに訪れる僅かな主体性を持ってアクティブに活動できる時間に読もうと思う論文を印刷したり本を少し読み進めても、それはすぐに数週間から数ヶ月という単位で途切れてしまうのだ。何度も同じ論文を印刷し何度か一度買った事を失念して同じ本を買い、結局私は大学時代に一歩も前に進めなかった。大学院時代には思い切って講義を完全に切り捨てる事と今年の4月頃に少しだけ状態が改善した事で少しだけ前に進めた。でも結局今や大学院からもドロップアウトしてしまったという有様だ。それでも、大学・大学院時代に私が何も成せなかったわけではないし、むしろ、私が置かれた特別な状況は、私に際立って合理的な視点を与えた。
そのように、私が抱えていた問題は私に対してプラスに働く部分も確かにあったのだ。だから、これまでの人生が自分の物でないように感じられたとしても、やはり私の人生はずっと私の人生であり続けたのだと思うようにしている。それは誰だってそうだ。人を形成する要素は単純にプラスやマイナスに働く物ではない。全く健康上の問題も経済上の問題も抱えていない人間が要領の良さばかりを身に付けて飲み会のような標準的な娯楽だけを楽しみとしながらつまらない人生を送る事もあれば、少しばかり体の弱い人間がそれをバネに立派な事跡を成す事もあるだろう。
問題は、現在の私が問題を抱えている事自体ではなく、それが私から人生の選択肢を全て奪ってしまっている事だ。せめて、私の人生と呼べる物が再び与えられる事があれば、それがどんな物であっても、文句を言わずそれを立派に歩んで見せようと思う。そのために、全く収入の道が閉ざされる事がないように、大学の頃から株式投資について調べ実践し、それは上手く行かなかったけれど、実家に頼るようになってから10月くらいの体調が最悪だった時期に「身も蓋もない」を開発して(これは情報収集とプログラミングを自動的に行えるタスクとして自分にインストールしていたから出来た事だ)Paypal経由で寄付を受け付けるようにした。その寄付はまだ一件しかないけれど、とにかくその経験を通じて、こんな状況になっても人間にはできる事がまだまだたくさんあると実感できた。それはまず第一に人間という物はそれほどに優れたシステムであるという事であり、そしてまた私がこれまで自分に対して行ってきた機能追加の賜物でもある。それを誇りに思い、絶望する事のないように心がけよう。
そういえば、麻生首相が、医療費圧迫に関連して、健康管理を怠らない努力をしているために健康でいられるという認識の発言をしていた。おそらく本当にそう思っているのだろう。私の父親くらいの世代の人々は人は自由意志による選択だけで人生を進めていくのではないという事が中々理解できないようで、イレギュラーな事態への対応がとても下手だ。悪い事をしなくても問題は起こるのだという事が、散々天引きで保険を引き落とされていても理解できないようだ。私の父親も管理職だが、部下の健康問題に関連してあまり上手く対応できなかった事があったようだ。私の場合も指導教官が初め状態を全く理解してくれず、理解し始めたら今度は様々に原因探しを始め、初めから休学の意思を伝えていたのに休学までに半年以上かかった。
私の祖父母の世代は戦争という自分の意思の埒外の理不尽を経験しながらレールを作っていった世代であり、私の父母の世代はそのレールを歩いてきた。私達はレールがなくなってしまった世代だ。たとえ私のように健康上の問題を抱えていなくてもやれ失業だの内定取消しだのと皆大変な思いをしているし、だからこそ逆にフリーターのような道も進んで選べる。上の世代は今の若者は3ヶ月で辞めるだのと文句を言ったりフリーターを非難したりするが、彼らは三ヶ月で``辞めなかった''わけでも、フリーターに``ならなかった''わけでもないのだ。
道行く人々に自分の窮状を一々訴えても仕方がない。今は赤の他人に自分の状況を理解してもらう事よりも(主治医には理解してもらわないと駄目だが)人生を掴みとろうと努力すべき時だ。その後に人間関係が形成されれば信頼できる友人には自分について語る事もあるだろう。
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